エホバの証人対策

1988年から証人問題で悩んでいる方々のために、カウンセリング活動を行っています。
100人以上の方々が脱会されました。元証人との交流も出来ます。

毎月第三火曜日、午後1時―3時、家族会を行い、証人に対する具体的対応について学び、悩みを共有しています。2014年、後2年でキリスト再臨(証人の教理1914年再臨)から100年、しかし、ハルマゲドンの預言は成就しませんでした!「1975年説」の誤りと同じです。

「輸血の禁止」は聖書の教理ではなく、証人だけの教理で、聖書の解釈の誤りから生まれている教理です。この教えの広がりは間接的殺人補助となるでしょう。「エホバの証人」は、クリスチャンではありません。彼らはイエスを神と告白せず、エホバだけを神としています。彼らは「エホバ教」です。多くの証人はマインドコントロールの故に正しく判断できません。力による(監禁、拉致)のではなく、粘り強い愛により説得しましょう。反対、迫害によってマインドコントロールは強化されるだけです。マインドコントロールが弱められるなら、自分で誤りに気づかれるでしょう。聖書解釈のルールはなく、「統治体」の独善です。キリストの神性を否定する解釈、翻訳による独自の聖書を出版しています(新世界訳聖書)。



「1914年の真理とは!
        -1914年から100年目を迎えました。-

100年前の1914年は第一次世界大戦が勃発した年でした。4年間に亘る戦いで1900万人程の死者が出たと記録されています。ヨーロッパを中心として、世界中で凄まじい苦しみや悲しみの叫びが響いたことでしょう。エホバの証人はこの状況を新約聖書マタイの福音書24章でイエスが語られた「終わりの日の前兆」と考えました。さらに旧約聖書ダニエル書4章10節から16節の「7つの時」の成就と判断したのです。最も主要な点は「キリストが天において神の国の王となられ『終わりの日』が始まったことです。」この解説は証人独特の解釈で確信に満ちているものです。

●確信の根拠をまとめてみましょう。

1.1971年5月1日号「ものみの搭」誌の記事を引用します。
転向点となる1914年
今あなたがお読みになっている『ものみの搭』誌は、すでに1880年3月号の中で、1914年がイエスの言われた『諸国民に定められた時』の終結する年であるとの、聖書の預言に人々の注意をひきました。……
神の預言的なことばは、たがうことがありません。時の経過は、神の預言的なことばの真実性および誤りのない正確さを証明してきました。 1914年に苦難の時代の開始を目撃したこの世代に残されている年数は、いよいよ少なくなっています。その世代が過ぎ去る前に、預言されていた『大かん難』が訪れるでしょう。」

2.「ものみの搭」の教えを研究する人々の初めのテキストは「聖書は実際に 何を教えていますか」を使います。テキストの付録に「1914年―聖書預言における重要な年」との見出しで詳しく解説されているのです。この箇所で聖書を巧みに引用して、B.C.607年から2520年経過すると1914年となるとして、1914年が「7つの時」の終わりとなると解釈します。
「その2520年は西暦前607年10月に始まりました。それは、エルサレムがバビロニア人の手に落ち、ダビデの家系の王が王座を追われた時です。その期間は1914年10月に終わりました。その時、「諸国民の定められた時」が終わり、イエス・キリストは神からの任命を受けた天の王として即位されました。……中略……そのような出来事は、まさに1914年に神の天の王国が誕生し、現在のこの邪悪な事物の体制の「終わりの日」が始まったことを、強力に証しています。」(「聖書は実際に何を教えていますか」P217~218)

3.「めざめよ!」誌の発行目的での1914年の強調 1980年代の「目覚めよ!」誌の発行目的には次のような説明が書かれています。 「きわめて重要な点として、本誌は、1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前に平和で安全な新しい世をもたらすという、創造者の約束に対する確信を強めます。」

このような教えは1880年から明言されており、「目覚めよ!」誌の発行目的の中できわめて重要な点としてと教えられていたのです。 以上の確信は少なくとも100年間は変わりませんでした。

●次にエホバの証人の特徴についてまとめてみましょう。

1.聖書を正しく解釈する唯一の組織であるとの確信。エホバの証人の教えは「真理」であるとの確信です。

2.「終わりの日」、即ちハルマゲドン(世界最終戦争)の時間を強く想定させます。すでに今までに、1918年(第一次世界大戦の終わりの時)、1975年の10月(アダムの誕生から7千年目となる)、そして「1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前に」と主張してきました。

3.熱心な宣教活動の実践。それは、「真理」を知ったとの確信と、 ハルマゲドンが近いとの危機感からの当然の帰結と言えましょう。宣教は神の大命令、神の愛の実践と信じて、仕事、学業、家庭以上に伝道活動を重視します。

4.証人の中だけの強い仲間意識と人間関係。 世俗社会との分離、家族、友人以上に証人同士の仲間意識を重視します。長年証人を続けると、今までの人間関係はなくなるのが帰結です。組織から離れられない現実生活の状況が生じます。周りからの反対などを経験すると一層証人との関係が唯一の人間関係となります。たくさんの仲間がおりそれぞれが誠実であり,犠牲的であるところから、組織の教理への疑問が起こりにくくなります。

5.組織に対する批判的すべての意見はサタンの仕業として、恐れ極端に警戒します。  当然、組織の中にいると教理の矛盾などに気づくことはありません。

6.一般の教会を常にサタンの僕として非難しています。カトリックとプロテスタントの区別が分かりません。同一視して非難しています。多くはカトリックについてであります。 一般の教会は聖書を教えない、伝道しない、戦争に参加するなどとして、常に一般の教会批判を注視して、自己の預言の矛盾に気づかせないようにしています。 エホバの証人の皆様はとても知的な方が多く、研究熱心ではありませんか。自分で考えることをされているでしょうか。証人の方々の信念は組織以上に聖書の真理に価値を見出されたのではありませんか。真理との確信が伝道の動機ではありませんか。誤りを宣べ伝えることに平気ではおられないはずです。 「教理について、洞察が得られたため、幾つかの点がより明確に理解で来るようになりました。」「以前の理解でした。」「再検討されました。」「理解してきました。しかし、さらに詳しく調べるなら、………、理解の調整が必要であることがわかります。」
上記の表現を用いて2013年7月15日号の「ものみの搭」誌で「1914年と終わりの日との関連」の教理が大幅に変更されました。単なる変更、調整、再検討で済ませる内容でしようか?

●どのような変更があったかをまとめてみましょう。

今までの教え (1880年3月から2013年7月)

(1)「1914年が終わりの日」の始まり。
(2)1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前に大患難、 ハルマゲドンが成就します。
(3)1914年にキリストは天の神の国の王となりました。その時から「終わりの日」の全   期間にわったって羊と山羊の裁きが行われます。

変更された教え(2013年7月15日号研究用ものみの搭」誌)

(1)「1914年に始まった出来事」は大患難ではなく「苦しみの劇痛の始まり」
(2)国連(現代の「嫌悪すべきもの」)がキリスト教会(一般のクリスチャンから見て
   聖なるもの)と大いなるバビロンの残りの部分を攻撃する時大患難が始まります。
(3)キリストは天において王となっているが王座には就いていない、国連の攻撃の後に
   王座に就く。偽りの宗教が滅んだ後に羊と山羊の裁きが行われます。

今回の変更の特徴は「1914年」と「終わりの日(大患難、ハルマゲドン)」との関係を希薄にすることと、大患難ハルマゲドンを、「国連が教会を攻撃したのち」とすることにあると理解出来るでしょう。それは1914年から100年を迎えた時もハルマゲドンが起こっていないからではありませんか?

●考えてください!!

「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないのなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」申命記18:22

過って1975年をハルマゲドン成就の日と信じた証人たちがいましたが「一部の熱心な信徒の願望」にすぎないと一蹴されました。さらに「ハルマゲドンが来ないことによって、伝道の機会が与えられたことは幸いだ」としました。 今回も同様の手法が語られています。1995年11月1日号の「ものみの搭」誌では「世代」の解釈が変更されました。「これまでにエホバの民は、このよこしまな体制の終わりを見たいと切に願うあまり,『大患難』の始まる時を推測することがあり、1914年以降の一世代の長さを算定したこともあります。しかし、わたくしたちは、一世代が何年あるいは何日に及ぶのかを推測することによってではなく………歴史上のある時期に住み、他と異なる一定の特徴を備えた同時代の人々をおもに指しています」(1995年11月1日号「ものみの搭」誌P17)」。

「目覚めよ!」誌の出版目的からも「1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前に」の文言がなくなりました。

しかし、今回の変更はあまりにも大幅であり、教義の根幹の変更ではありませんか。
証人は本当に真理の証人なのでしょうか。
100年間以上の間「1914年を聖書預言における重要な年」と信じて誠実に伝道していた証人たちは誤った期待を抱いて伝道し、誤った教えを伝えてきたことにはなりませんか。多くの証人は本当に「1914年の出来事を見た世代が過ぎ去る前に」を信じて人生設計を立ててきました。迫害や困難に耐え「間もなくハルマゲドンが来る」との信仰を励みとして伝道してきたのです。ハルマゲドンの到来は漠然となってしまいました。このようなことが当たり前に認められるなら同じことがこれからも起こるでありましょう。今回の変更された教えもいずれ変更されるでしょう。真理と確信して宣べ伝える以上大きな責任があるのではありませんか。

なんと不思議なことでしょうか? マタイの福音書での内容は2千年前から明らかで変わっておりません。このような基本的な聖句を何故今頃になって、「明確に理解出来る」「洞察された」「理解の調整の必要」等々なのでしょうか。
考えてください!!

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「ナザレのイエスは誰ですか!-Who is Jesus of nazareth!-

聖書 ナザレのイエスは誰ですか! 聖書を神のことばと信じる人々は「ナザレのイエス」は神によって約束されていた救い主キリストであり、神と同等、同質の方として礼拝してきました。しかし、今日では「イエスの神性」を疑問視して、イエスの生涯から奇蹟を除き人間イエスを強調する人たちや、イエスは神よりも劣る「神のような人」とする人々もいるのです。さらに「イエスを架空の人物」とする人々もいます。今年は西暦2015年です。世界の大半の人々がイエスの歴史的誕生を起点としている西暦を使っている以上、イエスの存在を無視するなら歴史を否定することになりますので「架空の人物」については論外として、聖書は「ナザレのイエス」についてどのように教えているのかを考察致します。この冊子ではヨハネの福音書1章1節と20章28節を中心にして「ナザレのイエスは誰ですか」を明らかに致します。
ヨハネの福音書1章1節をすべての公的な日本語聖書は「言葉は神であった。」と翻訳しています。

新共同訳 「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。」
口語訳  「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。」
文語訳  「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」
永井訳  「初めに言ありき、また言は神と偕にありき、また言は神なりき。」
新改訳  「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
新世界訳 「初めに言葉がおり、言葉は神とともにおり、言葉は神であった。」

上記以外にも私訳がありますが、すべての日本語訳の聖書では、「言葉は神であった。」(新世界訳)と訳され、「言葉(言、ことば)」とは1章14節の「こうして、言葉は肉体となってわたしたちの間に宿り…」(新世界訳)を参照すると、「言葉」は誕生する前の「イエス」であることが分かります。1節と14節とを合わせて考えますと「イエスが神であった。」となり、日本語からは明白に、誰が読んでも「イエスが神であった。」との理解になります。
「言葉は神であった。」(新世界訳 ヨハネ1章1節の最後の文章)の意味を詳しく考察しましょう。

ここでは「言葉」(ギリシャ語では冠詞が伴っている /ホ ロゴス )について 3つの教えが提示されています。
1.言葉の永遠性
「初めに言葉がおり」(新世界訳)の文章の「おり」(英語で was 、ギリシャ語で ヘーン )は、ギリシャ語の未完了時制(過去の中の継続)が使われているので、「言葉」が「初め」から時間を超越して、永遠に存在していたことを教えています(言葉の永遠の存在)。
2.言葉と神との人格的区別と一体性 「
言葉は神(ギリシャ語で ホ セオス)とともにおり。」(新世界訳)の文章では、「言葉(ホ ロゴス)」が「神(ホ セオス)」と向かい合って交わっていたことが教えられています。ギリシャ語では「ホ ロゴス エーン プロス トン セオン」、英語では“the Word was with God.”となっています。前置詞「プロス」は名詞の対格を伴い親密な一体となる交わりを現し、「言葉(ホ ロゴス)」と「神(トン セオン)」との人格的区別と永遠の一致した親しい交わりが明示されています。18節の「父に対してその懐の位置にいる独り子の神」(新世界訳)の聖句からも独り子の神(イエス)が父なる神と継続的に交わっていたことが示されています(「懐に居続ける者」/現在分詞の名詞的用法)。 ヨハネの福音書では「言葉(ホ ロゴス)」は肉体を身につけて(受肉、1:14)人となり、神(ホ セオス)とは区別され「神のひとり子」(1:18)と呼ばれています。また、神(ホ セオス)は父と呼ばれ、イエスとの関係において「父は、すべてにまさって偉大です」(10:29、14:28)とあるように、父なる神に対してイエスは従属的関係で教えられています(言葉と神との人格の区別と永遠の一致した交わり)。
3.言葉の神性
「言葉は神であった。」を正しく理解するためには、文章の前後関係と単語や語順に注視しなければなりません。ギリシャ語聖書では「セオス エーン ホ ロゴス」となっています。冠詞「ホ」のある「言葉(ロゴス)」が主語となることは明らかですが、「神(セオス)」が述語動詞「エーン」に先行しているので、強調されていることも注視されなければなりません。「神(セオス)」に冠詞(ホ)がないことから「a god(一つの神、神のようなもの)」との可能性があると主張する人々もいますが、ユダヤ人(唯一神論者)であるヨハネが「神(セオス)」を多神論の神としては使いません(使う場合は複数形のセオイ)。 ですから冠詞のない場合は性質の強調となるのが通説で、父なる神(ホ セオス)と同じ性質を有する方となるのです。
結論としては、
「言葉(ホ ロゴス)は神(セオス)であった。」とは、父と人格的に同一人物ではないが、本質的な性質において同じであり、永遠の初めから一致した交わりにある神ということになります。このことは、「言葉と呼ばれたイエス」が「父なる神」と同じ性質のお方であるとの宣言となるのです(言葉の神性の宣言)。それをヨハネは福音書の中でさらに明らかにしています。 このようなギリシャ語の文法理解は殆どのギリシャ語学者の主張であり、「a god」と解釈するのは、エホバの証人とごくわずかな人々、しかも、キリストの神性を否定する前提を持つユニテリアン(単一神論者)や、キリスト教自由主義者であります。エホバの証人は、ウエストコット博士(ケンブリッジ大学教授)、ホート博士(ケンブリッジ大学教授)のギリシャ語テキストを使用しながら、博士たちのヨハネ1章1節の解説を受け入れません。その他に権威あるギリシャ語学者A.T.ロバートソン博士(南部バプテスト神学院教授)、ダナ博士(西南バプテスト神学院教授)、マンティー博士(北部バプテスト神学院教授)の知識を引用しながら、彼らのヨハネ1章1節の解説を拒んで「a god/神のようなもの」と主張して、イエスの神性を認めていません。B.M.メツガー博士(プリンストン神学院教授 新約聖書本文研究の権威)は「a god」とする翻訳を「恐ろしい訳である。」と主張しており、W.バークレイ博士(スコットランド グラスゴー大学教授)も「“the Word was a god.”の翻訳は文法的に不可能である。新約聖書として翻訳する教派は知的に不正直であることは明らかだ。」と主張しています。 ヨハネの福音書においてイエスは神の子として紹介されており、父との区別は明白ですが、この点でイエスの神性否定には結びつきません。むしろ人格の区別がなければ三位一体の教理も否定されるのです。
ヨハネの福音書20章28節  弟子トマスの告白について考えてみましょう。 「わたしの主、そしてわたしの神!」(新世界訳)(ホ キュリオス ムー カイ ホ セオス ムー)
1.福音書記者のメッセージ イエスの弟子のひとりトマスは復活のイエスが現れた時、その場所にはおらず、イエスの復活を「わたしは決して信じない。」(新世界訳 ヨハネ20:25)と断言しました。ところが1週間後に現れた時、弟子トマスはイエスを「わたしの主、そしてわたしの神!」(新世界訳 ヨハネ20:28)と告白したのです。この時、ヨハネはギリシャ語で「主/ホ キュリオス」と「神/ホ セオス」に冠詞を使い、イエスを父なる神と同等の礼拝の対象として告白しました。ヨハネは1:1の宣言で始まり、トマスの告白20:28をクライマックスとして「イエスの神性、神である」ことを福音書において明らかにしました。 イエスは父なる神(ホ セオス)と明らかに人格的区別はあります − 特に受肉後のイエスは、神の子として、父に従属的です(ヨハネ14:28、ピリピ2:6−8)−。しかし、イエスは父と共に永遠に存在し、交わっておられました(1:1,1:18)。そして、本質において、父と同等、同質のお方として人々から礼拝されるべきお方であられたのです。 使徒たちは、人々から礼拝された時、そのような行動を強く否定しました。 「皆さん、なぜこうした事をするのですか。わたしたちも、あなた方と同じ弱さを持つ人間です。………彼らは、やっとのことで、群衆が自分たちに犠牲をささげるのをとどめたのである。」(新世界訳 使徒14:15、18) しかし、イエスはトマスの告白を受け入れられました。 「信じない者ではなく、信じる者となりなさい。」 「見なくても信じる者は幸いです。」(新世界訳 ヨハネ20:27、29) 復活の奇蹟は、トマスを初め弟子たちにイエスはキリストであり、神として崇拝されるお方であるとの確信を与えました。ギリシャ語「ホ キュリオス」は旧約の神にも使われます。「エホバ(原文は ホ キュリオス=「主」:著者註)の名を呼び求める者はみな救われる。」(新世界訳 ローマ10:13) ヨハネは1章1節で「言葉は神であった(God)」と始め、20章28節で「わたしの主、/ホ キュリオス ムー」「そしてわたしの神/カイ ホ セオス ムー」と結論付けたとするのが、ヨハネの福音書全体から「ナザレのイエスは誰ですか!」の答えとなるのです。
2.エホバの証人の誤ったメッセージ
ヨハネの福音書9章38節で生まれながらの目の不自由な男性が癒され、イエスに「敬意をささげた。」(新世界訳)とあります。新改訳、口語訳、共同訳、文語訳はいずれも「イエスを拝した。」 (KJVは“worshipped him”)と訳されているのです。ギリシャ語の「プロスクネオー」は第一義的には「礼拝する」と訳されるところですが、新世界訳を出版したエホバの証人はイエスを礼拝の対象と認めたくないので、「拝する」ではなく「敬意をささげた」としました。 その理由はヨハネ1章1節で「イエスは神のようなお方(a god)であるから礼拝の対象ではない」と決めつけ、あらゆる聖句をこの前提で解説するのです。


これらのことから、エホバの証人のイエス論はヨハネの1章1節の解釈の誤りを基にして展開していることがおわかり頂けるでしょう。ヨハネの福音書1章1節で「言葉」を「神のような方、幾つかある神の一つ(a god)」と信じている方々に考えていただき,真理は何であるかに気づいていただきたいのです。 「ナザレのイエス」「人生の希望と目的」「心の平安」などについて更に詳しくお知りになりたい方は下記のところへ勇気を持ってご連絡ください。
2015年1月10日発行

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〒655-0048
神戸市垂水区西舞子8丁目10-11 JW問題カウンセリングセンター
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2013年9月29日

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